「有機農業を研究するということ」会報寄稿文より

2012年9月発行の長野県有機農業研究会会報No,78に掲載された会員の萩原紀行さんの記事がこの種の会報には貴重な有機農業を研究する記事だったので本人の許可を得て転載させて頂きました。

穀物野菜部会では会報記事等で秀逸なものを会報という紙媒体に縛り付けておくことは大いなる無駄と考えこういった形で転載していきたいと思います。
なお、会報にとどまらずこういった形で公表することは取りも直さず様々な意見を頂くことにあります。
ご意見などありましたら、皆さんの意見が散り散りにならないように当ブログコメント欄へと記載して頂ければ幸いです。

よろしくお願いします。(穀物野菜部会)


有機農業を研究するということ                

佐久穂町  萩原紀行 (のらくら農場  )           長野有機農研寄稿文 より転載


 いや、お恥ずかしい話なんですが、15年前に就農したころの僕は、栽培の職人としては全くダメで、頭でっかちもいいところでした。(今でも?)作物を作って失敗しても成功してもなんでそうなったのかが全然わからない。植物や土のメカニズムを理解していないのに、「有機農業は作物と会話することが大切です。」なんて言っちゃって。今考えると穴があったら入って、誰かに埋めてもらい、コンクリートで固めてもらいたいくらいです。就農一年目の冬に、有機農研の事務局をやらされました。(笑)ちょうどそのころ、県の農政が有機農業にほんの少し歩み寄ってきて、県との話し合いなんかが持たれました。そんな会議に、未熟な僕なんかが行くもんですから、ろくな話し合いにならない。植物や土を理解せず、生意気に農業政策なんかに意見があったりするもんですから、始末が悪い。「浅はか」とはこのことというような僕。当時会長だった武居さんは、やっぱり大人で、圧倒的能力。うまいこと僕をコントロールして誘導してくれました。武居さんがいなかったら、どうなっていたことか。今でも大感謝しています。
 この若かりし頃、会員の、南箕輪の河崎さんとお会いしたことがありました。当時からすごい技術者というお話は聞いていました。当時の見学会で河崎さんにいろいろ質問したのですが、返ってくる答えは「そうやな~、難しいなあ。まあ、やってみーや~。」というのらりくらりのご意見。正直、なんてつれない人なんだと思いましたよ、河崎さん!(笑)ところがこの河崎さんの返答が重要だった。
 たまたま、河崎さんと同じ流通に出荷していて、この冬に名古屋の流通さんの会議でお会いしました。ここで、深くお話をしました。河崎さんの栽培術、経営、信念のお話が出る出る。ものすごい内容で、僕は聞き入ってしまいました。その後、現代農業に河崎さんがごぼうのネコブセンチュウを克服した記事が載っていたので、さっそく電話しました。地元の酪農家さんとタイアップしたバチルス菌の液肥の内容、その菌密度、手探りの使用方法の試験、田んぼの雑草クログワイの抑草と稲の初期肥効の関係、酪農と農業の作るべき社会的関係性。空想論ではなく、現実論としてのなんと濃い内容か。すごいの一言でした。それは、今年すぐに田畑で使える思考に展開できる程のリアリティーでした。
 何も答えてくれなかった十数年前と今回は何が違っていたのだろう。おそらくこういうことだ。過去の僕は未熟すぎて河崎さんと話をする共通用語、共通概念すらなかった。こんな自分と話しても、おそらく何も通じない。僕も、この十数年で、栽培のこと、経営のこと、そこそこ勉強した。そうなると、共通用語が育ってくる。例えば、バチルスとは、菌密度とは。ここで初めて「会話」というものが成り立つ。河崎さんの「やってみーや~。」という返答は実に理にかなっていたと今は思う。
1段階・・・・ある程度の言語の共通化、概念の共通化
 長い前ふりになりました。何が言いたいかというと、共通用語を持たなければ、栽培論を100万言交わしても、会話になっていない可能性があるということ。農業政策、健康論、環境論もまたしかりです。
 4年前に初めて研修生を受け入れました。これは僕にとって大変勉強になりました。何しろ、僕に伝える能力が不足している。作業のコツなどは手取り足取りで伝えられる。ただ、追肥や菌を生かした技術となると、そのメカニズムを理解してもわらなければならない。場面によって対処が全く変わってくるので、マニュアル化はできない。ここでも、僕の説明は実に拙くて、ダメダメだったのですが、研修生夫妻がすごく頭良い人だったので、彼らの理解力にこちらが救われました。
 たとえば、「キュウリを作るのに、自家製ボカシ何キロをまく」という説明は、情報としてはゼロに近い。このボカシの内容が提示されなければならない。C/N比、材料、発酵させた菌の種類(乳酸菌や酵母だと酸性になりますし、納豆菌だとアルカリになる)で全然変わってくる。これをどの状態の土に使うのかでもまた変わってくる。
 結局僕が選んだ、研修生との共通言語は数値と元素記号になりました。実は僕は化学が苦手なのですが、あら不思議、元素記号の方が簡単に理解できる。元素記号って、難しくさせるためのツールではなく、簡単にするためのツールなんですね。ここで、僕が言いたいのは、共通言語を数値や元素記号にせよということではないです。もっとふさわしい共通言語がありましたら、教えていただきたいです。
 元素記号や数値って、「なんか有機っぽくない。ドライな感じ。」と言われるのですが、これがそうでもない。「もやしもん」という農業や菌のマンガがあります。けっこうおもしろいですよ。ここに、麹菌とかバチルスとか出てきますが、これがかわいいキャラクターとなって出てきます。こんなキャラ付けを元素記号にしたらなじみやすいのかなと思いました。銅はCuですが、これをアンパンマンみたいなキャラにしたっていいわけで。その方が覚えてもらいやすいかも。(記憶は、印象とともにすると強固なものになります。キャラクターのようにデフォルメ化すると確かになじみやすいです。しかし、印象を変化しなければいけない時がデメリットとなります。印象とともに憶えた記憶は、固定化されやすく、変化しにくくなるからです。〔要するに頭が固くなる〕そのデメリットを十分に理解してデフォルメ化をするべきと考えます)
 有機農業の世界で肥料の低投入の議論がなされることがあります。この内容を見ても、僕は会話が成り立っていないと感じてしまいます。人によって「肥料」の概念と「低」の概念がバラバラだからです。窒素のみを肥料と考えている人もいるし、ミネラルを含んで考えている人もいる。炭水化物を含んで考える場合もある。肥料に関して言えば、僕は生産者ではなく作物を主語とします。肥料を撒くという人間を主語とした視点を外してみると、雨水も肥料であるし、枯草も肥料となる。水をH2Oという化学式にしてみると、植物の繊維となるCHOの重要な材料になるからです。枯草も加水分解されブドウ糖となり、それが作物に吸収されます。これらを肥料と僕は考えているので、「無肥料」と言われると、これは水もない、全く植物が育たない環境ということになります。「低」という概念も、何をもって低とするかは個人の感覚に属してしまっていて、客観的な視点が欠けています。この状態でどれほど議論しても深まることはないと思います。意見ではなく、事実をもとに議論する必要があるのではないでしょうか。
2段階・・・・暗黙知を形式知に
 これは、うちの野菜をとってくださっている遠藤隆也さんに教えていただきました。元NTTの技術部門の方で、ファックスを開発した方です。現在、農の匠の技を後世に残すプロジェクトを手掛けておられます。お百姓の達人ほど、体にしみこんだ技を持っています。非農家出身の僕なんかが一生かかっても追いつけないすごいものです。こういう方に何年もそばについて学ぶことができれば、大変勉強になると思います。背中を見て盗めというような指導。これには価値がある。しかし、この方法を指導者としてとるとなると、僕は研修制度ではなく雇用しなければならないと思います。学ぶ側の生活費がもたないからです。(実は今、研修よりも、雇用の方が人を育てられるのではないかとも感じています。現在は、4人中二人が研修生、二人がスタッフという変な態勢です。)現在の研修生は、家族を抱えているので、背中を見て学べ状態ではとてもじゃないが、間に合わない。早く軌道に乗ってもらわないといけないからです。
 そこで、僕の頭の中だけで考えているものを、皆に公開しなければならない。例えば肥料は、「堆肥何キロ」ではなく、「炭素率12%、含有窒素2.2%そのうちの有効窒素係数70%の堆肥をつかって、一反あたりの窒素成分12キロ分を撒きます。」というような形になおします。ここを卒業したあと、自分なりの肥料を使うとしたら、成分換算しなければ情報にならないからです。農家が暗黙の了解でやっていることを次の世代に技術として残すとしたら、ある程度は形式知の形に変換する必要を感じます。
3段階・・・・形式知を集合知に
 穀物野菜部会が企画してくれた、オンライン圃場見学会で茨城の農家さんがこの集合知の考えを教えてくれました。(この企画は、僕が今まで参加したイベントの中で、最も充実した内容のイベントでした。関谷部会長は有機農業の新たなネットワークを切り開いたと思います。大袈裟じゃなく!)今年、研修生の一人が独立しまして、リトルジェムというミニトマトを作りました。僕もこの品種をはじめて作りました。この品種だけが、突出してマグネシウム欠乏が出やすいことがわかりました。お互い、土壌分析をして、その内容をデータとして保管してあります。それをもとに生育診断で葉の艶をみて、マグネシウム欠乏を判断できます。お互いが言語を共通化して、データという形式知を持ち、生育診断の技術をもっていたから、それを察知できました。それに対する対処方法も二人で検討できます。これが集合知かと思います。
4段階・・・・そして、勘、経験、感覚
 以上書いてみましたが、僕は土壌分析をしろとか、施肥設計をしろとか言っているわけではありません。具体例を出しただけで、ここで言いたいのは思考論です。そしてこれらの方策は、決して勘や感覚、経験を無視するものではありません。勘、経験、感覚などは共通言語や知と相反するものではなく、むしろ補完しあうものと考えています。例えば、ホウレンソウが黄色くなって終わってしまったとします。原因はいくつか考えられる。全体が黄化している場合は、おそらく土が酸性の可能性があります。ここで勘や感覚を使うよりも、ph(ペーハー、酸度のことです)を測った方が早い。5分でできますし。下葉から枯れあがってきた場合、マグネシウム欠乏の可能性がある。生長点近くが黄化の場合はマンガン欠乏の可能性が高い。ここでも、感覚や勘ではなく、分析してしまった方が早い。勘、経験、感覚の出番はもっと奥の別の領域で発揮した方が良いのではと思います。僕はよく研修生の人にいっています。「農業には経験や勘が必要。しかし、経験以外の方法で経験不足を埋められる部分があるのなら、使った方がいいと思う。『経験でしか解決できない領域をなるべく絞る作業』が必要だと思う。なぜなら、未熟だろうが経験が浅かろうが、僕らは家族を養っていかないといけないのだし。」

 これらのことは、例えば就農一年目の人がそれをやるというのは難しいと思います。しかし、「今自分は共通言語をもって会話していないのかも。」という意識を持つことは重要で、わからない部分を意識することが、わかっていくためのツールとなると思います。もちろん僕もこの辺りは修行中の身です。

 

これらの思考過程を踏んでいくと、農業政策や、環境論も見えてくる気がします。深く、熱く、冷静な議論ができれば有機農業が開く未来は力強いものになると思います。みんなの知恵を出し合って有機農業を研究する土台が作れたら楽しそうです。世の中を動かすには意見よりも、事実の積み重ねだと思います。
 

 


「有機農業を研究するということ」会報寄稿文より” に対して1件のコメントがあります。

  1. 布施大樹 より:

    貴重な原稿の公開をありがとうございます。一昨日から何回も読み返しています。昨年のオンライン小祝塾で、自分が消化不良に終わったのは、皆さんと共通言語で話していなかった、ということがよく分かりました。最後の一文がグッときます。有機農業はとくに屁理屈と思われがちなんで、結果で示してゆくのが大事ですね。

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